アメリッシュガーデン改

姑オババと私の物語をブログでつづり、ちいさなガーデンに・・・、な〜〜んて頑張ってます

インターネット

 

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卵から生まれるネットという怪獣

 

 もう、25年くらいになるだろうか。
 1997年前後の話だ。

 

 モデムという機器でインターネットをつなぎはじめた頃に遡って欲しい。陳腐な表現かもしれないが、ネット黎明期の頃のことなんだ。

 

 当時、私は仕事関係で米国の研究者が開発したインターネットについて考えていた。あくまでそれは文系的な関わり方だったのだが。

 

 当時はまだ大学のコンピュータ研究者たちだけが、デジタル化した信号でネットを使う時代であった。黒い画面に数字やアルファベッドが並ぶプログラミングコードを操ってる人々のことだ。

 

 これを一般的にしたのが、マイクロソフト。いや、その前にアップルが革命をおこしてはいたが、一般的になるのは、やはりマイクロソフトが1995年に発売したWindows 95だったろう。多くの人々にインターネットが普及する土台を作ったのがウインドウズだ。

 

 いつの時代でもそうだが。
 例えば、明治時代にカメラで人を写すと「魂を抜かれる」と、誠しやかに語られたような混乱が、インターネットのはじめに多くの現場で起きていた。

 いや、嘘じゃない。
 みな、ある意味、摩訶不思議なネット技術についていくべきか、放っておくべきか、そんなハムレットシンドロームの状態だったのだ。


 今では考えられないが、多くの人々の間では、まだまだ、ネットが何かなんてわかっていなかった。そうした状況で企業ホームページを作るのか、なんてことが会議の議題だったりしていた。

 

 いろいろな失敗が繰り返された。

 ネットの不安定さ、サーバが落ちてデータがすべて消えるなど、あり得ない状況が起きた。それが現実だったのだ。しかし、多くの地位ある人々は、つまり企業の上層部は過去の経験から不安定なものに信を置かない。

 

 さすがに現代では、ネット環境やセキュリティの不安定さという事実を多くの方が認識している。しかし、この黎明期、企業の課長レベル以上は、その認識は全くなく、会社のホームページがフリーズすれば、それは企業としての信用に関わると考えた。


1997年の映像メディア

 

 1997年当時のテレビは地上波が主流。
 デジタルテレビ放送は8年後の2003年からで、2011年にはアナログ放送が終了した。

 

 当時はテレビ番組を家族でリモコンを争い。その上に、「あのドラマが8時からだから、お風呂、さきに入っとこ」と、普通に会話していた時代だ。そこに、やたら場所を取る番組録画したビデオテープというレトロな代物があったのだ。

 

 時の流れは、あまりにも早い。
 時代が進むにつれ、更に変化は加速度を増しているように見える。

 テレビは内臓ビデオデッキからブルーレイになり、その後、テレビ自体に録画機能を持ち、ビデオテープとかCDとかが必要なくなってしまった。あの頃、録画しておいた多くのビデオテープはゴミになった。

 

 まあ、いつの時代も新技術は多くの混乱を生み、過去の技術を大量のゴミにする。

 しかし、仕事をしていく上おいて、ネットの導入ほど、さまざま、ある意味こっけいな混乱はなかったと思う。
 このとき、私たちは江戸時代に黒船がやってきたと同じような混乱を経験をしたのではないだろうか。

 次に、私が実際に見た、この時代の大手企業、また新聞業界や出版社の状況を語りたい。

 

ホームページってなに?

 

 1997年といえば、日本では山一證券拓銀が破たんし、海外ではダイアナ皇太子妃が交通事故死した年だ。ネットでいえば、ほとんど人がホームページが実際どんな役割で、どう使ったらよいかを知らなかった年である。

 

 とりあえず、ホームページ制作を一般企業が制作へと動きだしたのがこの頃。一般にモデムが普及して自宅でネットを見ることができるようになったからだ。

 株式市場ではインターネットバブルの半ばだった。

 

 当時のパソコンは動きも鈍く、よくフリーズした。画面が止まって、全てのデータが吹っ飛ぶなんて当たり前で、慎重な人は数分おきにデータを外部メディアに保存したものだ。1日の終わりには必ず外部メディアに保存して情報を守っていた。今もだろうが、不安定さに格段の違いがある。

 

 その頃、企業がこぞって自社のホームページを立ち上げたが、そもそも、それを運営する企業のお偉方には、それが一体なんなのか皆目見当がつかなかったようだった。

 ネットと紙媒体の違い、テレビなどの映像とネットの違い。
 発注側も暗中模索なら、制作側も何もわかっていなかった。

 この頃、ネット関連の雑誌対談に呼ばれたことがあって、ある著名な教授ほか数名と対談することになった。

 

 教授はネットにおける当時の第一人者であり、いわば米国発祥の技術について詳しかった。ただネットをどう民間で使いこなすかについて、おそらく、失礼を顧みずにいえば、考えていらっしゃらなかった。

 一方、私といえば、彼の話はチンプンカンプンだったのだが。

 雑誌の趣旨はネットを、これから一般の人がどう使いこなすかだった。そこには、UNIXの基礎技術など関係がなく、また、ネットを使う一般ユーザー的にも関係のないことだ。

 誰がテレビの映像を見るのに、その映像信号を理解する必要があるだろうか。

 ネットの将来について、専門的で技術的な話はあったが理解できない。通信速度がどのくらいまで上がるかの数字に興味が持てない。まさに混乱した時代にふさわしい対談になった。

 

 同じ頃、朝日新聞では初のデジタルニュースサイトを立ち上げるために(私の記憶間違いかもしれないが、ネット新聞の魁は朝日新聞だったと思う)、東京にある本社ビルに立ち上げたばかりのデジタル部門ができていた。

 今もよく覚えているが、当時、新聞社ビル内のガラーンとした広いホールのような場所に、組み立て式の簡易的な長テーブルを置き、そこにデジタル関連の機器が数台置いてあった。

 

 なんだか寂しげな雰囲気で、花形部所から外れた場末に見えた。この部所が、のちに花形として踊りでるなどとは想像もできないほど、日陰ものの場所に思えたものだ。ここで責任者とお話する機会を得たのだが。

 

 広いホールのど真ん中に、ぽつんとソファとテーブルが置かれた場所に案内されて、お話を伺った。

 

「いや、上の者の理解がなくてねぇ」と、責任者は苦笑いしてらした。

 

 この数名ではじめたデジタルニュース部門は、今では大きく発展。朝日新聞でも、また、他の多くの新聞社でも存在感を示している。

 

 しかし、この黎明期に、誰もがインターネットという可能性に疑心暗鬼で、その将来の展望には懐疑的。大きな予算は取れなかったようだ。当時、ネットとは、そんな扱いだったのだ。

 

 出版社では紙媒体が主流であり、ネットと出版物が関わるなど、新参者のネット系雑誌以外、大方の編集者は考えてもいなかっただろう。

 そう、今の私ならわかる。インターネットがどう発展して未来を形作ったか、当時に戻って教えてやりたいほどだ。

 

 通信環境も悪く、すぐ壊れてフリーズするパソコンと、1200bpsのデータ通信がやっとのモデム速度。

 オモチャみたいなものだった。

 ちなみに、1bpsは1秒間に1ビットのデータを転送できる速度のことで、現在のスマホはメガbpsのデータ容量の通信が可能になっている。

 

当時の検索システム

 

 その頃、検索システムが日本にも出現したが、なんと、すべてのデータを手動で入力するようなアナログシステムでもあった。どこかの天才たちが、主に米国だが、検索ロボットを開発途中で。検索エンジンのシステムもまだまだ、こちらも日陰ものだったのだ。

 

 これも、今ならわかる。


 大容量の検索システム。これこそが最も大きなインターネットの果実なのだ。しかし、当時、一般的には、そう思われていなかった。

 なにせ、現代のようにサクサクとは通信できない。
 ポンコツのパソコンに、容量の低いデータ速度。
 そういう中で、さまざまな検索システムが出ては消えていった。

 

 ロボット型検索エンジンが効果を発揮するようになるのは、2000年を過ぎたころだろう。それまでに、さまざまな検索システムが勃興した。まさに、検索エンジン戦国時代を経て、今のヤフーやグーグルがある。

 

 

 1997年、ネット時代の黎明期にあった混乱時代を経たその後、SNSは今や生活の必需品であり、私たちの生活そのものを変化させた。今なら、こう言っても誰も反対しないだろう。


 あれは、現代における最も大きな社会変革だったと。

 

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【用語解説】モデムとはパソコンと電話回線を有線でつなぎ、インターネットに接続をするための中間機器。当時は、現在のようなデジタル環境はなく、ネットに繋ぐにはアナログ回線を使うしかなかった。現在はそれをルーターが担い、無線接続であるWi-Fiを便利に使いこなす時代に進化を遂げている。

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