異世界ファンタジー小説。
小説サイト「カクヨム」に新連載している作品です。
【王朝流離譚】限りなく無慈悲な皇子の溺愛 〜超絶不憫系の主人公は薄っぺらな愛情なんて欲しくない〜
爛れた腐臭が充満する貧民窟、さらに南。
どんよりとした空は砂塵におおわれ、太陽を遮る岩肌によって、薄暗いなかに放置されている。
そんな場所で起きることは、たいがいが想像できる。
食べものを奪いあい、少ない水に群がる。生き延びるためだけに足掻く者たち。
崩れかけの掘立て小屋、水の涸れかけた井戸、死んだ動物、死んだ虫、死んだ者、枯れた木、どれひとつとして、まともに生きているものはない絶望の地に。
砂塵、砂塵、砂塵……。
鼻と口をベールで塞ぐくらいでは砂は侵入し、噛めば口の中でザラザラと不快な音を立てる。
砂漠化した土地は、つねに砂塵が吹き荒れ止むことがない。
幸福などという、小洒落た思考から切り離された乾いた地に、希望を持つ者。
その希望は呪いでしかなかった。
『呪い』は、百二十年という時を『希望』という名で語り継いだ。
誰のために、何のために。
生きる者のためという者もいる。
笑止!
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「やれ! 超弩級の力でもって、やりきれ! できる、わたしなら、できる! いや、できないかも……」
小刻みに震える手でナイフを持ち、口に突っ込む。ナイフの先が八重歯《やえば》にあたりカツンと嫌な音を立てた。
「さあ、シャオロン! ヤラれるだけの女になりたくないだろ。吐くタイミングだから、恐れるなよ!」
八重歯にあたったナイフの刃先が、カタカタ鳴っている。
いっきに唇から頬を裂けば、醜い顔になる。そのためにナイフを持ったが、実際となると勇気が失せる。
自分の愚さが招いたことだけど……。ボスのヘンスが言った忠告が骨身に染みていなかったから、こんなことになったんだ。今更、後悔しても遅い。
『顔を隠しとけ。けっして他人に見せるんじゃねぇ』
一年前くらい前か、ヘンスはそう言った。愚かなわたしは、その忠告を生半可に聞いていた。
貧民窟では美しい顔など悪夢でしかないとわかっていたけど。
ちょっとだけ言い訳をすれば、あの日は異常に暑かったのだ。
乾いた空気が熱気を含み、汗がダラダラ流れるが、すぐに乾く。肌の表面に塩が噴いて布で覆った顔は爛れ、乾燥とかゆみに悶えた。
つい、人目の多い市場で布を外してしまった。
周囲の空気がいっぺんした。
悪いことに風が強い日で、マントが跳ねあがり全身まで衆目にさらすという、失敗の二段構えだ。
「シャオロン……、おまえ」
知っている顔が、わたしの名を感嘆するように呼ぶ。その理由は、すぐにわからなかった。
あとで嫌になるほど思い知らされたが、どうも男たちの下半身を疼かせる容姿をしているらしい。そんなこと、先に教えて欲しかった。
無駄に色っぽい身体付きに、あどけなさの残る素顔。
幼いころから武闘家にと、ボスに鍛えあげられた身体は、その訓練にもかかわらず、スラリと伸び肉付きが良い。
「お、おまえ、そんな顔だったのか。女神さまかよ」
「シャオロンやぁ。すっかり大人の女じゃねぇか。俺とやらねぇかぁ。優しくするぜ」
「おお、おれっちも愛してるぜ」
チンピラたちの愛ほど安いもんはない。その辺で売られる二束三文の粉饅頭よりも安い。
「おまえたち、わたしに指一本でも触れてみろ! 殺してやる」
「つれねえなぁ」
上から下まで舐めまわすように纏いつく目、目、目。わたしは自分の目立つ容姿が危険でしかないことを自覚した。
……今更、もう手遅れなんだけど。
なんとか無事に市場からは逃げ帰りはしたが、このままではチンピラだけでなく上の奴らに目をつけられる。そんなことになった日には、女奴隷として大金で買われちまう。
ボスのヘンスが気前よくわたしを売るにちがいない。
わたしの選択肢は二つだ。
その運命を受け入れるか、あるいは、抵抗するかだ。
そんなもの選択するまでもない。
頬を切り裂いて醜く変貌する。
そう……。
そう、それしかないと結論した。
唇の端にナイフの刃が当たっている。これを、真横に引けば、おどろおどろしい顔になるだろう。
さあ、さあ、さあ!
目を閉じ、腹をふくらませ、いっきに鼻から空気を吸い込む。
ブハッと、息を吐くと同時に下から上へと唇の端から頬を切り裂いた。
ザクリ!
皮膚を破る不吉な音。
「ギャアアア!」
喉からドブ獣が発するような酷い声がしぼり出た。悲鳴でさえない。唇を切ったナイフを放り投げる。
血がドクドクと流れ落ち、焼けるような鋭い痛み。気を失いそうだ。
「クソッ、痛えぇ〜〜、クッソ、わたしはバカか! アホだ! きっと自覚のないアホだぁ……、って思う……、い、痛い!」
わたしの名はシャオロン。
巨雲皇国の貧民窟に住む十八歳。
幼いころにドブ川に捨てられたらしいが、その記憶はまったくないんだ。たぶん、覚えるには、あまりに酷い経験だったちがいない。意識的に記憶を消したのだろう。
まあ、そんなこんなの不幸自慢、この世界には腐るほど落ちている。
同情してくれなんて言ったら、嘲笑されるのがオチだ。いっそ、幸せであるほうが異常だ。そんな幸せボケは、寄ってたかって食いもんにされちまう。
ヘンスは言っていた。
「なぜ拾ったかって? おまえが俺の足にしがみついて離さなかったからだ。覚えちゃいねえのか。それに、よく見ると、可愛い顔をしてたからな。ある程度の年になったら、高く売れると思ったのさ」
思えば、生まれた当初から、わたしの人生は不憫なものと運命付けられていた。
その上に美しい顔なんて、この貧民窟では呪いでしかない。
ジクジク痛む唇に耐え、これからも生き延びていくつもりだ。
幸せになろうなんて贅沢は考えていない。冷酷なヘンスとふたり、なんとか生き延びる。それがわたしの希望だ。
なあ、神さま。
あんたが、そこにいるんなら、こんなことぐらい頼んでもいいだろ。
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