アメリッシュガーデン改

姑オババと私の物語をブログでつづり、ちいさなガーデンに・・・、な〜〜んて頑張ってます

【明智光秀の謎その2】本能寺の変。秀吉と光秀はライバルだった。来年のNHK大河ドラマ

今週のお題「わたしの自由研究」

 

こんにちは、いつもお読みくださってありがとうございます。

 

洗濯機でお布団のシーツに上手く隠れやがったリモコンを洗って、落ち込んでるアメリッシュです。

どうも、リモコン、私に対して、なにか思うところがあるようです。

 

さて、今日も明智光秀です。

ちと、事情があって、【結婚と毒親、オババシリーズ】書けません。

来週、また再開します。もし、お待ちの方、とっても申し訳ないです。

 

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明智光秀

イケメンだった明智光秀

 

明智光秀は非常に頭脳明晰な男であったと、信頼できる史料に残っています。

 

信長には古くから子飼いの家臣も多くいましたが、彼ら以上に重用したのが

羽柴秀吉明智光秀でした。

 

いわば外様のなかのツートップ。その一人が光秀でありました。そして、ここが重要な点なですが、実は頭一つ光秀が抜けていたんです。

 

皮肉なことに天下を手中に入れたのは、光秀ではなく、秀吉でしたが。

 

実は光秀、信長から、その才能を最も愛された男であるんです、驚きませんか? 私は驚きました。

 

「このハゲ」って額叩かれていたわけじゃないんです。

そして、資料によると、光秀、かなりのイケメンです。

 

所作など典雅であったらしく、百姓出の秀吉とは違って、居ずまいから品があったようです。

 

小柄で、サルというあだ名がぴったりの秀吉と、知的な光秀。

 

歴史的事実として、実際に天下を取ったのは秀吉で、その結果、秀吉史観が後世に残ることになります。

 

要は、勝者の論理です。

光秀は悪党になるしかないのです。

 

私、ちと疑っております。

 

「このハゲ」と額を叩かれていたのは、実際は秀吉ではなかったかと。

 

それは、信長の親愛の情だったかもしれません。また、秀吉はそうした他人が心を許してしまう、お気楽な人柄でもあったようで、天性の人たらしと呼ばれていました。

 

が、心の奥では傷ついていた。だからこそ、勝者となった秀吉は書き残すのです。

「このハゲ」と、明智光秀が叩かれていたと。

 

現存する資料によれば、光秀は単純な男でも激情にかられて事を起こすタイプでもなかったようです。

 

(いくさ)においては、用意周到に準備をおこたらず、狡猾さをも合わせ持つ理知的なタイプです。

 

また、諸学に通じ茶の湯を好み、和歌をたしなむ文化人でもあったと残っています。

 

良政を布いて領民からは慕われています。

現在も彼の徳をしのぶ村が数多くあり、福知山では名君として神社に祀られています。

 

本能寺の変 当日 の羽柴秀吉

 

本能寺の変』が起きた日。京に滞在していた宣教師ルイス・フロイスの日記によれば・・・

 

光秀は、才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けていたと。

己を偽装するのに抜け目がなく、戦さにおいては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であったと残しています。

 

さて、本能寺の光秀の謀反(むほん)を知った秀吉は、世に名高い中国大返しを決行します。

 

この経緯は秀吉が天下を掌握した後に書かせた『惟任退治記』に詳しいです。

 

惟任(これとう)とは明智光秀が信長から賜った姓で、『惟任退治記』とは、光秀を退治した記録と、ま、なんちゅうか、秀吉のセンスがわかる直球タイトルです。

 

ここに記録されたことを純粋に信じれば、秀吉は本能寺の異変を知ってのちの、6月4日には毛利と和睦しています。

 

6月6日に備中高松を撤収して、山あり谷ありの道中235キロを10日で踏破した、ということになります。

 

それにしても、なんとも素早い決断、行動力です。

 

光秀のみならず、大方の人間を、その中には未来の人、つまり私たちをも、びっくりさせる行動と瞬発力。

 

嘘だよね。

だって、ほとんど不可能でしょ、それ。

 

でも、やったようです、秀吉。

秀吉が書いていることを信じれば、というか、秀吉が信じてほしいことを鵜呑みにすれば・・・、という話です。

 

この成功が秀吉を後の天下人にしたというのが通説です。

その後、秀吉が織田家代々の家臣柴田勝家を敵に回して、清洲会議を乗り切ったことは、とにもかくにも、この瞬間の決断と英雄的な走破にあります。

 

中国大返し

 

中国大返しを敢行して、秀吉が姫路に到着した6月7日。この日は大雨と強風が吹き荒れる台風の日でした。

 

よくもまあ、普通でも難しい強行軍であろうに、嵐のなか特攻できたものです。

 

未来から振り返れば、ここが歴史の分岐点であり、信長の弔い合戦を秀吉が主導したという事実が残ったことになります。

 

さて、ここで想像していただきたいのです。

 

3万近くの軍勢。騎馬隊だけで先駆けしたとしても、当時の狭い道幅で泥にぬかるんだ道なき道を走破するという事実をです。

 

背後には毛利、道中には敵も待ち構えているでしょう。

 

強風に煽られ、歩くこともままならない台風も難題です。

 

これだけの悪条件を乗り切った上での備中高松岡山県から山城国山崎京都府までの235キロを走り抜いたという事実です。しかも10日という短時間。準備の良いことに、要所要所では兵糧が用意されていました。

 

さながら、駅伝の名だたる選手が周囲の歓声と飲み物の差し入れを受けて走り抜いていくようです。

 

ですが、箱根駅伝の猛者でも、10日間、走り抜くことができるんでしょうか。

 

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これを歴史の真実としているのが、秀吉の残した『惟任退治記』という資料です。

いわば時の権力者が自分の都合に良いように記した恣意的な書物であり、敗者の資料が残っていない以上、これを信じるしかないのです。

 

これ、敗者にとっては二重の敗北という意味を持ってませんか?

まさに、明智光秀、やられたい放題。

ハゲって額を叩かれてるし。

 

更に、この事実も付け加えておきます。

 

これまで歴史に埋もれていた書状が、最近になって出てきました。

秀吉の家臣が書き残した記録です。

 

それによると、中国大返しをした秀吉は

「6月4日、備中高松を発し、途中まで帰ってきている」

「6日、姫路城に入城」と記されています。

 

つまり、6日には姫路城に入城していたというのです。

 

秀吉がつくらせた『惟任退治記』の記述では7日であり、そこ、不都合はない? 秀吉の嘘、ばらしちゃった?

部下、まずい仕事しちまって、これ、今なら上司の始末書レベルだと思う。

 

この行程が事実なら、信長が討たれる前に、その事実を知っていた疑いが出てくるんです。

 

始末書どころか、懲戒免職か。

 

秀吉は、わざわざ『惟任退治記』を書かせ、自らの行軍の正当性を主張しています。

ということは、不都合なものは処分したにもかかわらず、こうした一次資料が出てきてしまった。

 

秀吉、痛恨ミス!

 

家臣の私的書状すべてを検閲することなど無理があったでしょうが、まさか未来で、こうした資料が発掘されるなど想像だにしなかったでしょう。

 

さて、あなたは、どう判断なさるか。

 

私、そもそも本能寺の変の歴史的事実を疑っています。その色眼鏡で書いていると正直に告白しておきます。

 

明日に続く

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