【明智光秀の謎その3】NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれる光秀像の勝手な推測
今週のお題「わたしの自由研究」
こんにちは、ご訪問いただいて本当にありがとうございます。
勝手に洗濯機で洗われることを選び、お外で乾かされ、十分に反省しているリモコンを見てるアメリッシュです。
さて、昨日のブログでは、現在に残っている資料は、勝者である秀吉が書いたものという、お話から、イケメンだった光秀とサルとよばれた秀吉の、信長の部下としての立ち位置を書きました。
妄想ですが、秀吉は光秀に嫉妬していたように思えます。
どう思いますか?
徳川家康と織田信長の関係
面白い資料を紹介させていただきます。
明智軍の武将である本城惣右衛門、まさしく、その時代に生き、そして、本能寺の変で戦った男が、江戸時代に『本城惣右衛門覚書』という日記を書いています。
そこには、本能寺に向かう明智軍の末端の兵士には、徳川家康を討つと伝えられたと記されています。
この招聘、家康にとってはいかにも怪しかった。身の危険を感じて、彼、そうとう悩んで疑心暗鬼におちていたようです。
家康の立場は微妙です。
2000vs25000の圧倒的不利な戦いに勝利した信長。
この勝利で、信長は天下に名を広めます。
それほど、衝撃的な勝利だったということです。
この当時、織田信長と徳川家康の関係は、同等に近く、決して家来という立場ではありませんでした。
その後、信長は数々の戦いで勝利し、家康は、徐々に同等の立場から織田軍の一武将の地位へと落ちていきます。
この家康の地位、天下をほぼ掌握しつつある織田からすれば、すこし厄介です。
譜代からの家臣でもなく、秀吉や光秀のような子飼いから取り立ててきた相手でもありません。
名門の出自である家康は、秀吉や光秀とは立場が違います。
天下を掌握したのちの家康が、信長にとって必要性がない。むしろ邪魔な存在になっていくことは、あの理系頭の信長には自明の理だったことでしょう。
だからこそ、家康、困ったのです。
殺されるかもしれないと、怯えていました。
しかし、断れば、鬼神信長に不信感を抱かれます。
これは更に危うい。
されど、行けば危険というジレンマに、家康は一か八かの賭けにでました。
いや、でるしかなかったとみるべきか。
本田忠勝など、後の徳川四天王を含める精鋭三十名を引き連れ、粛々と安土城に向かいました。
家康をもてなす光秀
その当日、家康の接待役を仰せつかったのが明智光秀です。彼は様々な珍しい食材を調達して、贅を尽くした最高のもてなしをしました。
まさに、光秀の、お・も・て・な・し、です。
宣教師ルイス・フロイスが書き残した「日本史」によれば、この宴の最中、密室で信長と光秀の間に口論があったといいます。
激怒した信長は光秀を足蹴に。
これが本能寺で謀反を起こしたことの動機というのもありますが。
さてはて、いったい足蹴にするほどの信長の逆鱗とは?
また、その理由は?
腐った魚を提供したとか、まことしやかな伝説が伝えられてはいますが、そこは後世の創作である可能性が高いそうです。
前に書きましたが、本能寺に向かう明智の下級兵士たちは、家康を討つと考えていたという確かな記録が残っています。
先ほどの光秀の部下で、のちに秀吉、家康と渡り歩いて、命をつないだ本城惣右衛門の日記です。
もし、もしもと仮定しての話ですが。
安土に呼び出した家康の謀殺、実際、家康はそれを恐れていました。
信長が忙殺を仕組んだとして、そして、その企てを光秀に託し、彼が反したなれば、先の口論は、また別の意味を持つのではないでしょうか。
信長! 声、ちと高いです。
「なぜ、その方は余の命に逆らう」
瞬間沸騰器のような男です。
誰もが信長を恐れ、ピリピリしていました。
「殿、今はまだその時期にあらずと」
「そなた、歯向かうか」
「まだ、毛利も平定しておりませぬ。いまは、まだ」
「ええい、その方。誰に向かって口をきいておる!」
激情した信長が光秀を足蹴に!
「ひらにひらに」
てなことがあったのかもしれません。
実際、もし家康を亡き者にするとしたら、どういう手段があったでしょうか。
毒殺は、後世に名を残したい、この時代の武将には不本意だと考えるのですが、では・・・。
光秀の家臣であった本城惣右衛門は、時代が下がり江戸時代に、「本城惣右衛門覚書」で書きました。あえて、書きました。家康を殺すと思っていたと。
本能寺の変もすでに遠く、天下は秀吉から家康へとうつっていたころです。
なぜ、そんな後になって、このような記録を書き残したのか。あるいは、未来へのアナグラムとして、彼は何らかの事実を故意に残したかったのか。
もともと、彼、光秀の下にいた男です。そして、彼の統治した村民は、今も光秀を慕うほど、よいボスでした。
妄想は膨らみます。
徳川家康と羽柴秀吉と本能寺の変
もう一人の重要人物がいます。
それは宇野主水が書き残した人物で、杉原殿という名で残されています。
宇野主水とは本願寺顕如の祐筆です。平たく書けば本願寺の記録係といった立場でしょうか。
宇野の日記に、本能寺の変前、家康の京都に行きに杉原殿という人物が同行したという記述が残っています。
家康の家臣ではない人物にもかかわらず、わざわざ名前を書き残したくらいですから、かなりな重要人物なのでしょう。
羽柴秀吉の正室(本妻)寧々の叔父に杉原家次という人物がいます。
杉原殿が杉原家次である確証はないのですが、もし彼が杉原家次であれば、その後の展開が妙に納得がいくのです。
いや、もう妄想です。
秀吉の叔父である杉原家次を、家康の動向を探るために遣わしたとしたら、つまり、スパイだと考えてみます。
秀吉には、どうしても、家康の動向を知る必要があった。そのために杉原殿を送り込んでいたとしたら。
思い出してください。
秀吉はなぜあれほどの速度で中国大返しができたんでしょうか。
仮に本能寺の変が起きることを予想していたとしたら。
そして、それは信長ではなく家康忙殺の計画であることを知っていたとしたら。この重要な日の出来事を知ることは秀吉にとって死活問題であったでしょう。
事実、杉原殿の姿は本能寺の変後、忽然と消えています。
事件の推移を秀吉に知らせた人物、それが杉原であったことは想像に難くありません。
文献によれば、秀吉は信長の死を非常な驚きで捉えています。
寝耳に水で、帰る途中、泣いて落馬したとも。
「殿、信長殿がうたれました」との伝令が秀吉のもとに、
「なに、いっとりゃあす。殺されたのは、家康でねえんか(コテコテの名古屋弁)」
「殿、ことは急をようするんで、泣いとりゃあす場合じゃにゃあで」
「だわ。行くで」
てな、会話があったかどうか。
信長の死後、ありえない速度で京都に戻った秀吉の、世に名高い中国大返し。
信長ではなく家康の死を事前に予想しており、準備していたとするならば、この大返しも不可能とは言えなくなります。そして、その計画を練った人物もいたはずです。
明日へつづく