【明智光秀の謎その4】本能寺の変後、誰の策略が功を得たのか。NHK大河ドラマに寄せて
今週のお題「わたしの自由研究」
こんにちは、いつもお読みくださってありがとうございます。
洗濯機で洗われるという暴挙をなしたリモコン、天日干しに耐え、無事、よみがえりました。今後もあるので、一応の説教したのち、許したアメリッシュです。
さて、昨日のブログでは、「本能寺の変」直前に、秀吉がスパイを放っていたとの疑惑を書きました。
徳川家康の動向が、秀吉の出世に関わると知って、スパイを放ったとしたら、という妄想です。
そのスパイの名は杉原殿、秀吉の叔父にあたります。
本能寺の変、黒田官兵衛の役割
本能寺の変後、中国地方から京都まで、新幹線もなく、大嵐のなか、当時の人々でさえ、驚愕する速度で戻った秀吉軍は・・・
帰路途中の軍隊に水も食事も馬も準備する用意周到さで、その上に周囲に明智光秀に味方しないよう、さまざまな手段で頼みながらの、情報戦をも戦って走りこんできました。
もう、完璧なんですよ
これほどの大仕事が可能なんでしょうか?
信長が討たれたという事実が、まったくの不意打ちだった場合、こんなことができるんでしょうか?
スーパーサイヤ人レベルの知の天才?
まず、無理なんじゃない?
しかし、もし、これが事前に準備して行った作戦であり、情報戦だったとしたら、可能かもしれません。
毛利攻略の援軍を信長に頼んでいた秀吉。
彼らしい気配りから、信長の行軍準備として、各所に、備蓄用の食糧など準備していたとして。
このコースを逆に利用したと考えることもできるのです。
さて、そのような準備、また、中国から帰る途中の情報戦を、誰が策を練り、采配したんでしょうか。
秀吉の家来群で、こうした策略を巡らす人物といえば軍師黒田官兵衛以外にはいません。彼の皮肉な横顔が思い浮かびます。
足を拷問で悪くした官兵衛、動かない代わりに脳はフル回転です。
さて、明智光秀の側から見れば、秀吉の帰還は悪夢でした。
世にいう3日天下は、光秀のことを指してます。
実際には本能寺の変後、彼は12日間、生きています。
が、なぜか3日天下の言葉が先行して、光秀、3日しか君臨してなかったと思われがちですが、それは違っているんです。
それにしても、信長謀殺という暴挙を遂行した後、光秀は、あっさりと農民に討たれてしまったのでしょうか。
光秀の最後は諸説ありますが、おおよその内容は似ています。
本能寺の変後、電光石火で戻ってきた秀吉は、光秀に決戦を挑みます。
俗に言う、天王山の戦いです。
この戦いで光秀は簡単に負けてしまいます。
光秀、どうしたであります。
相手は、岡山から京都まで、235キロを走破してきた疲れ切った部隊だよ。
翻って、こっちは、10日ほどの余裕があって、体力弱ってなかったんだから。
が、ともかく、負けました。
それはもう、え?っていうくらいに簡単に負けました。
そして、坂本城に落ち延びていく途中、落ち武者狩りの百姓に討たれたんです。
光秀、まったくやる気を感じさせません。
さて、光秀のものとして首実験に供された首級は三体あるといいます。そのいずれもが、顔面の皮が剥がされていました。この意味を、どう推察しましょうか。
普通に考えれば、光秀ではなかったということでしょうか?
当時の時代背景を考えてみます。
戦国武将の首級を取ることは極めて重要な事項でした。
首級を取って、はじめてその人物を打ち取った事を意味します。ですから、秀吉は光秀の首級を晒すことに拘泥したのです。
例え、その皮が剥がされていようと、それが本人の首級であると知らしめることが重要なのです。
例えば、信長の首級です。
もし、光秀が信長の首級を晒すことができれば、歴史の流れは変わっていたというほど、大切なものでした。
首級がなかったが故に、本能寺の変後、すぐに秀吉は書状で各地の武将に信長も信忠も無事であったと喧伝しています。
こうしたニセ情報を各地に送ったことで、光秀に味方するものがいなくなったのです。
ネットもテレビも写真もない時代です。だからこそ、人通りの多い場所で首級を晒すことは情報通達の手段であり、現代の人間が考える以上に重要でした。
今も昔も情報を制するものが勝利を有する、ということです。
ところで、光秀も信長の首級といって、焼けただれた首を晒すことは可能だったと思います。
なぜ、それをしなかったのか。
疑問です。
本能寺の変後、二つの遺体が消えました。一つは信長、もう一つは光秀、ということになります。
妄想の話
ここから更に想像であり、ファンタジーとお許しください。
もし、光秀が本能寺に到着したとき、すでに信長は亡きものであったとしたら。
もし、その遺体はすでに運び去られていたとしたら。光秀はなすすべもなく、信長の消えた遺体を捜していたとしたら、
その策略を画策した者は、いったい誰であったのか。
最近、発見された『本城惣右衛門覚書』に書かれていた通り、家康を討つために本能寺に向かい、
「明智軍の陣容・軍装を検分したい」という理由で信長への謁見に、本能寺へ向かったというのが事実だとしたら、
つまり、家康を打てという指令を受けた故に本能寺に向かったとすれば、真相は異なるものとなります。
歴史上で起きたとされる事実は、「本能寺の変」の不意打ちです。
指令を受けるために本能寺に向かった明智光秀と、実際に起きた本能寺の変、この双方が事実だったと仮定した場合、つまり、あえて仮定するという話ですが。
この二つの出来事が、どう重なって、結果として歴史上の事実となったのでしょう?
ここから導き出される大胆な結論は、明智軍を待っていた本能寺に信長はいなかった、としか考えられないのです。
女性や小姓を含んだ100人の供しか連れていなかった信長です。手練れ数人で暗殺するのは簡単であったでしょう。
そして、何者かが殺害した後、明智軍が到着したころを見計らって本能寺に火を放つ。
なぜなら、後世に残った資料は勝者の歴史観だからです。
思い出していただきたいことは、本能寺で信長の遺体は発見されなかった事実です。そして、首級はさらされなかった。
信長が僅かな兵を率いて本能寺に滞在した理由は、中国攻めをしていた秀吉に援軍を要請されたからです。
何やらキナくさい匂いがします。
光秀軍は1万3000を超えた大軍勢。圧倒的な兵力で寺を囲み、信長の遺体を発見できなかった事実は大きな謎となっています。
しかし、すでに亡くなって、何者かによって運び出されていたと考察すれば、腑に落ちるのです。
つまり、信長は光秀進軍前に殺されていた。そして、いずこかに運ばれ、火が放たれた。
まさに、その場に周囲に悪目立ちする大軍勢で現れたのが、明智軍なのです。
傍から見れば明智軍の謀反と映るのではないでしょうか。こう考えると全ての符号が合致します。
その後の3日天下のやる気のなさ。
光秀、状況に対処できてません。
かたや、秀吉、家康、ともに奇跡のような動きをみせてます。
家康なんて、
「もう、自害しかなかろう」
「いや、殿、待たれよ、われらには味方が」
「そ、そうか」
なんてな猿芝居、わざわざ後世に残しております。
光秀は罠にはまったのです。周到に用意された罠は、彼を謀反人へとミスリードすることになります。
妄想です。
次回は、その軍略を練った人物を書きたいと思っています。
明日へつづく