『麒麟がくる』放映延期。今後の桶狭間の戦で史実に残る信長の動きと計略とは!
目 次
『麒麟がくる』延期からその後
『麒麟がくる』次回6月7日で放送延期が決定。
今回のドラマは成人した松平家康(のちの徳川家康)の登場と、その家康と信長の間で走る光秀と、なかなかにドラマチックな内容でした。
現代に残る資料では、当時の明智光秀の動向ははっきりしていない。だから、新たな光秀像として歴史上での活躍を描いている訳です。
明智光秀は、のちに将軍足利義昭と信長の仲を取り持ったとも伝えられています。朝倉家に身をよせた一介の浪人ではなかった。それは事実だったでしょう。
それにしても、今回の日曜日もいいところで終わった感があって、6月からの延期は残念です。
それにしても、私的には染谷将太演じる信長がとてもいい。
残っている歴史的資料からも、信長は当時としては突き抜けた存在で痛快な男です。いわゆる天才の活躍ってのは誰が演じても、いい役であることは間違いないのですが。
染谷さんの癖のある演技が、本来はスマートでいい男であったはずの信長に深みを与えているように思えます。
これまでの『麒麟がくる』の内容は歴史的にみれば、一地方の小競り合いが中心でしたが、ついに歴史の大きな転換点に差し掛かりました。
信長の名を天下に知らしめた『桶狭間の戦い』序盤です。
家康と信長の籠城作戦からはじまる今川家の存在。まさに歴史が動いた、その時が大河で始まったのです。
実際、資料に残る当時の信長の行動を調べてみました。
桶狭間の戦い 1560年
桶狭間の戦い。信長はまだまだヒヨッコの26歳でした。
一方は名門の今川氏です。
1560年、今川義元は家督を譲り、身軽になって三河制圧に動きはじめたのが発端です。三河の先には尾張があります。
3万余の大軍勢を率いた義元は尾張へと兵を進める。
当時のヒヨッコ織田軍はすべてかき集めても4,000人ほどの軍勢しかなかった。
30,000VS4,000の戦い。
この圧倒的な軍事力の差。勝てるはずがない。
その上、今川と織田、両者の間には人数以上の差があったのです。
義元41歳、信長26歳、経験値が違います。
11代今川家当主、今川義元は優秀な男である上に身分も格式も高い。
室町幕府将軍であった足利家と血縁関係もある大大名です。まさにサラブレットでした。
一方、隣接する尾張を統べる織田信長は、身分的には清洲三奉行の一番下であって、そもそもの格が違った。
当時の日本では上は天皇や将軍から地方の武将まで、誰もが知る今川義元という男と、おそらく、当時の人に織田信長と聞いても、たいてい「それ、誰?」と聞かれるような存在。せいぜい、三河一帯、現在の愛知県あたりで小国を統べる「ウツケの大将」くらいにしか思われていなかったでしょう。
信長の名を天下に知らしめた戦い。それが『麒麟がくる』でこれから放映される「桶狭間の戦い」です。
当時の状況といえば、信長の父である織田信秀の死後、今川義元は事実上、織田家を三河地区から駆逐し、かなりの地に勢力を伸ばしていました。
いつか今川大軍が来る!
それが今日でなければ良いと多くの織田側陣営は思っていたことでしょう。
その今川がついに動いた。
織田家中は戦慄したにちがいない!
獰猛なライオンが猫に食らいついてきた。
「多少はこっちの城を食われても、もうしょうがない」
「だわな」
「義元のやつ、どこまで、来りゃあた」
「沓掛の城だそうだわ」
「沓掛か。ところで殿は」
沓掛とは、現代の豊明市、トヨタ自動車で有名な豊田市より西側、少し名古屋市寄りである。当時は今川領になっていた。
軍略会議を開かなければと、どよめく重臣たちを尻目に信長は何を考えているのか家中の人間はわからない。
そんな殺気立った重臣たちのなかへ、伝令が届いた。
今川勢、要の城、大高城に松平元康(のちの徳川家康)が守りに入ったという。
「今川軍、大高城への補給を」
「失敗したか」
「いえ、補給に成功したようです。丸根城、鷲巣砦へと明日には進軍してくるかと」
「どえりゃあこった(訳:大変なことだ)」
この大高城への補給退路を断つために、織田軍は2つの城に軍を配備して警戒していた。そこを突破されてしまったのだ、織田家中の落胆は大きかったであろう。
一歩一歩、今川は尾張に向かって軍を進める。
さながら、イナゴの大軍のような軍勢がゆっくりと、しかし確実に襲ってくる恐怖を感じたにちがいない。
今川に接する城を守る織田側の武将、恐れおののいた挙句に今川に寝返るものも出た。
織田信長のあざとい情報戦略
今も昔も戦争は情報戦です。
三河に接する地域で、今川に寝返る織田側の家臣。
信長は奇妙な一手を使った。
ニセ手紙を、それも寝返った織田側の家臣の筆跡を真似て書き、今川義元の手元へ渡るようにしたのです。
この手紙には織田側の情報が記してあったのだが、今川にしてみれば、寝返った武将が織田家の情報を知っていること自体がいかがわしい。
さては2重スパイかと疑心暗鬼に陥り、織田家の裏切りものを処刑してしまった。
信長の作戦勝ちであり、これにより、その後の信長側からの裏切りは減ったのです。死に物狂い、後がないと知った人間の強さを信長は、その後も利用します。
戦国時代を10年戦い続けてきた信長は、織田家中を掌握したとはいえ、まだ、家臣に信頼されてはいなかったし、信長自身も彼らを信じてはいなかったと思われます。
それは自軍の軍略会議の場所でも同じであったようだ。
今川が動いた。
「殿、ここは籠城で」
「いや、殿、撃ってでなければ、いずれは今川が」
織田軍の会議は紛糾した。しかし、のんびりした姿で信長は黙って、それを聞いている。
「さようか」と、信長言った。
いよいよ結論か、急先鋒の森可成に対して籠城を主張する者もいて、家中はまとまらない。その中で、
「皆、もう屋敷に帰れ、俺も寝る」
信長はこう言ったのだ。
今にも、今川軍が攻め込んで来ようという日、家臣を家に返した。
(やはり、ウツケか・・・)
家臣団の心が冷えたことは想像にあまりある。
1560年6月12日未明。敦盛の謡
雲がかかり、星は見えなかった。
その夜は湿気が多く寝苦しい夜であったかもしれない。
運命となった歴史の境目、この日、信長が今川軍に敗北したならば、後世の時代は違ったものになったであろう。
徳川家康が天下を取ることもなく、江戸幕府200年余の歴史は消えた。
だが当時の人々は、信長の勝利など誰も考えなかった。
家臣でさえ勝利を疑い戦いの末の死を覚悟するか、あるいは、自らの家の存亡を模索していた。
敵軍軍勢30,000人に対して、各地の城に配した1,000人を引いて、清洲城に残る織田軍わずか3,000人。
ほぼ10倍の兵力で勝てる相手ではない。
だからこそ、桶狭間の戦いは歴史に残り、当時の人々を驚嘆せしめた。
この勝利は偶然のラッキーが重なったからか、あるいは、勝つべくして勝ったのであろうか。
どんな勝負にも偶然やラッキーな運は存在する。しかし、そのラッキーを手中にするための戦略と努力なくして、運が存在しないのも事実です。
今川軍が織田側の包囲網を突破して、大高城への補給に成功したことで、織田の家臣は色めきだった。
籠城か、あるいは撃ってでるか、家中が分かれるなか、
信長は「屋敷で休め」と指示。
これには、誰もが失望しました。
「やはり、うつけには荷が重い」と。
信長の真意はどこにあったのだろうか。
彼は事実にしか信をおかない、ある意味、冷徹な判断を下す男であり、戦略や政治に情を持ち込まない。ただ、冷静な視線で事実のみを見ています。
今川軍が大軍で攻め、周囲の者の裏切りや寝返りなど日常である日々。
信長は戦国時代の虚無を敦盛の詩を歌うことで癒している。
『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか』
(人の生はたった50年。
永遠の天にくらべれば、ほんの短い夢や幻のような時間、
一度生をえても、必ず滅びていく)
出 陣
早朝未明、まだ夜の暗さが残り、モズが鳴くころ・・・
織田勢の誰もが死を意識した日。
「殿!」
朝3時、障子の向こうから声が聞こえた。
「申せ」
「丸根と鷲巣に向かって敵軍が攻撃」
「空は」
「曇っております」
信長は寝床から飛び上がると、小姓を呼んだ。
「全軍に出撃準備! 熱田神宮に集合せよと知らせよ」
近くで寝ずの番をしていた小姓は、その命に身構えた。
いよいよきた、全身が総毛たつ思いである。
ひとりは伝令に走り、残りは信長の準備を手伝う。
立ったまま食事をすませ、信長は目を閉じた。
周囲には若い小姓たちが控えている。
カッと見開いた。
と、その場にいた小姓たちは平伏する。
信長が前に手を伸ばすと扇子をひらき、無表情のまま、彼が最も親しむ敦盛を歌い舞ったのである。
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか・・・」
そして、一矢を放った。
「参るぞ!」
ここに信長の決意をみることができます。
勝つ覚悟。
できる準備はすべてした。あとは勝負に賭ける覚悟だけである。
信長は時間を支配する。彼の戦いは常にスピードを最大限に活用したものでした。時を支配することで、彼は優位を保つことを野生の本能で知っていたのです。
「馬引け!」
彼はそう低く命ずると、障子を乱暴に開けた。
「ものども出陣じゃ、続け!」
家臣のもとへ伝令が走った。
眠れない夜を過ごしたもの、酒をくらってやけくそで大いびきをかいていたもの、全員が驚いであろうことは想像に固くない。
早朝、午前3時過ぎ、どの重臣の家もにわかに明かりをつけ、馬に鞍をつける。
その中を、一人二人と闇に紛れて走るものがいた。今川側の間者(スパイ)たちだ。
(何事が起きている)
彼らも情報が見えない。
昨日は信長が軍略会議もせずに、世間話をして屋敷に戻ったという伝令を今川のもとへ走らせたばかりでした。
もっとも、家臣の誰も信長の真意を知らないのだから、まして、家来や、その中には今川に通じている者もいようが、誰も信長の真意はわからない。誰もが右往左往して準備をすることになった。
午前4時前、信長が屋敷を出る。
追いついてくる家臣は小姓の5名のみだけだった・・・。
後編はこちらから
今後の『麒麟がくる』
コロナウィルスで撮影延期です。しかし6月まで放映できたところをみると、大河ドラマの先取りって、結構、以前からなんだと思った次第です。
民放の春ドラマが全延期になっているにもかかわらず、ともかく6月7日までは撮り溜めしてあったということ。
ということは、5ヶ月分まで撮り溜めしていたことになるのかな。ほぼ2ヶ月の自粛だったことを考えると、自粛取りやめから放映再開まで、2ヶ月くらいかかるのでしょうか?
放映再開はまだ未定だそうです。