もう、忘れています。
皆さま、いかがでしょうか。
麒麟ドラマは、桶狭間が終わったのちから始まる訳で、その後、信長がいよいよ、その名を天下に示した、その少し後の信長の仕事量をチェックしてみました。
なんかすごいです。
昨日アップした、まさしく働くの好きすぎる男です。
ある時期の織田信長という男
親父の代で、ちょっと大きくなった中小企業。
それをさらに大きく、大企業へと発展させたのが織田信長という男だとおもってて。
1573年、名家であった朝倉義景が滅びた年。
織田を企業と考えるなら、組織改革が必要となる、ちょうど、大企業へと転換する時期だったといえるかな?
8月30日に再放送が決定した『麒麟がくる』は、この1573年の少し前の時期から始まります。
将軍足利義輝が滅び、新たに義昭が将軍職を継ぐ。それを後押ししたのが信長で、その後、両者は袂をわかつってしまい。
1573年は信長が過去の遺物将軍の上に立つと決めた年でした。
当時、織田信長は組織改革をはじめていたんです。
部隊が大所帯になり、これまでのように小回りも効かなくなっていた。陣容は8人の武将による軍事体制へと変化しました。
朝倉が逃亡したとき、彼を追うことに遅れた5人の武将に加え、中川重政、明智光秀と、その後、浅井家が滅亡してのち、磯野員昌がくわわった8人体制が、当時の織田家を支える屋台骨という陣容です。
信長が権力を握る過程で、さらに体制を支える武将は増え、組織は拡大していきます。これは現代の企業。勢いのあるベンチャー企業が発展する様子と同じだと思いませんか。
一方、刀根坂の凄惨な激闘から壊滅的な打撃を受けた将軍同様の過去の遺物朝倉軍。
この戦いで3000人以上の死者を出しました。
信長は、この時、朝倉軍とともにいた斎藤龍興の首をとった。かつて義父である斎藤道三を殺害した斎藤義龍の実子であり、道三の孫です。
信長の妻帰蝶の甥っ子にあたります。戦国時代というのは、骨肉の争いになることが多いのです。親子間、兄弟間、親戚間、そんな戦いがあちこちで起きていました。
こう言っちゃなんだが、24時間働けますか、ビジネスマ〜〜ン、ビジネスマ〜〜ン!って、バブル時代の働きマン以上に、信長は猛烈だったと思う。
その猛烈ぶりを1573年の夏を時系列で追ってみました。
名門朝倉義景を滅ぼした信長の仕事量が、これなんです。
8月8日 信長、3万の軍勢を率いて岐阜城を立ち小谷城のある滋賀に向かう。
岐阜からの山越えで琵琶湖まで。これ、新幹線のない時代だから。基本、徒歩で真夏の炎天下を大荷物を背負って歩く。荷車もあり、そこには食料や武器、鎧なんかも下人が運ぶんだ。それもワラジでだよ。快適な登山靴もない。
8月9日 浅井長政が籠城する小谷城に到着。そのすぐ近く虎御前山砦に本陣をおく。
信長の仕事は3万人の兵を本陣にまとめ、彼らの士気を高め、戦略を練ることもあるけど、その上に京都所司代の仕事も監督しながら、こうした遠征をしていた。
8月10日 朝倉が2万の軍勢で田上山に本陣を置く。信長、田上山と小谷城の間、山田山に陣を築く。
8月12日 暴風雨が襲ったのを機に、信長、先頭にたって1000人の直属の精鋭部隊とともに大嶽砦を急襲、城を落す。その勢いで丁野城を攻め、ここも陥落。
8月13日 朝倉義景の撤退。
佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀ら役立たずの家臣団が追撃しなかったため、怒りながらも信長、みずらから先頭に立ち追撃をはじめる。
8月14日 13日に刀根坂で追いつき敵を撃破、14日にかけそのまま40キロの距離を敵を討ちながら、走りぬける。
8月15日 刀根坂での勝利に将兵をねぎらい、休息を与える。
8月16日 休息。将兵に休息を与えたけど、信長に休みはない。
朝倉の様子を間者に調べさせ、その上に家臣や兵に褒賞をあたえるなどの雑務。
こんな逸話も残っています。
朝倉の家臣のひとり印牧弥六左衛門が生きたまま捕えられた。信長の前に引き出さたときの逸話が、『朝倉始末記』『信長公記』という当時の資料に残っている。
「このものは誰だ」と、信長が聞いた。
彼は朝から、ずっとこうした部下たちの手柄を聞き、その上で褒賞を与えている。
「これは印牧と申すものでござる」
「印牧、名前を聞いたことがあるな。なかなか天晴れな戦いをすると聞いたが」
印牧は縄に縛られたまま平伏した。
「その方、わしに仕えれば命は助けてやろう」
彼は顔をあげると、訥々と話した。
「朝倉の殿には、一つ二つ、言いたいことはござる。恨みもござりまする。しかし、一緒に戦った仲間たちが討たれた今となっては、わしだけが助かるわけにはいき申さん。ここで切腹致したく、お許しねがいたい」
信長は、その態度に心を打たれた。
「よかろう。お主の望みはかなえよう」
印牧は縄を解かれ、切腹用の短刀を渡された。
「ありがたき幸せ」
彼はその場で切腹して果てた。
その潔い姿に、信長も感服したという話が残っています。
とまあ、2日間の休息は兵にとっては褒美をもらえる嬉しい休みだったが、信長にとって仕事でもあったのです。
8月17日 越前へ侵攻、大軍で攻め込む。
8月18日 一乗谷の城下を焼き払う。落ちる朝倉義景を追う。
8月20日 朝倉義景、自害。首の検分、生き残った近親などを処罰、捕縛、処刑など、多くの戦後処理を行う。
8月26日 越前からの100キロの距離を馬や徒歩で滋賀まで戻る。
浅井長政が籠城する小谷城攻めのため、その500m先に築いた虎御前山砦に到着、その場で総攻撃を命じる。
17日間、2日間の休憩を挟んだ強行軍。信長の行動力には驚くばかりです。
彼は、この頃、よく怒鳴ります。
おそらく、疲労は相当であり、信長自身がわかってなかったのだろうと思う。
彼の姿をみると、この9年後に起きる「本能寺の変」を考えてしまいます。
破滅にむかってひた走る彼の姿は、もの悲しい。けど、その仕事が終わったことに、すこしほっとしていたのでもないだろうか・・・
そんなふうに感じてもいます。
現在、カクヨムサイトで「明智光秀によろしく」を書いております。お読みいただければ、本当に、とても嬉しいです。