【明智光秀の謎|信長編 2】自分の子どもを差別する親。兄弟間の好き嫌いを親は無意識のうちにしているか。(NHK大河ドラマ『麒麟がくる』)
誰もが天下の大アホだと思っていた奇行種、織田信長。
当時の常識枠を外れた男ゆえに、ヤンキー坊ちゃまは家臣の多くに絶望を与え、顰蹙(ひんしゅく)を買っていました。
この濃という名前は本名ではありません。「美濃の国の高貴な姫」というだけの通り名です。
実際の名は「帰蝶」あるいは「胡蝶」と書かれた記録が残っていますが、ここでは個人的な好みで帰蝶としておきます。
帰ってくる蝶・・・、なんとも言えない響きを感じます。
彼女は信長と結婚する前、12歳で土岐家に輿入れしています。
お相手の土岐頼純は主家筋、つまり帰蝶にとっては玉の輿ではありますが、下克上がお家芸である父マムシの道三。結局は、この家を滅ぼします。
(#下克上:読んで字のごとく、下が上に勝って権力を奪うこと。斎藤道三は下克上を繰りかえして坊主の立場から成り上がった男です。当時は織田家より強豪でした)
信長の父、信秀に攻められた折、娘を嫁がせたにもかかわらず織田側につこうとした土岐氏。
道三は織田ではなく土岐氏を攻め娘は出戻ってきます。その後、政略結婚で信長の嫁になるのです。
帰る蝶、帰蝶です。
『美濃国諸旧記』によれば、1535年生まれ。信長より1歳年下となります。
昨日のブログから父親の死の1年ほど前に話を戻します。
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因縁:信長の結婚
信長が15歳のおり、縁談が組まれた。
信長の育て親である平手のジイさんは、この縁談をまとめるのに苦労する。
戦略結婚とはいえ、道三が婿として見限れば話は終わる。
それでは困るのだ。
「殿、ぜひともこの縁談は成功させねばなりませぬ」
平手の不安は深い。
信長は今日もザンバラ髪に、浴衣の着流しを縄でくくった悪たれ姿である。
こんなヤンキーのチャラチャラ男を婿になど、あの目から鼻に抜けるやり手の道三が受け入れようか。
そう不安になっていた矢先、道三は織田家との密約を反故にして、別の男と娘を政略結婚させる。
ほら見たことか。
平手はそう思うと同時に悔しかった。
まだ赤ん坊だったカンの強い信長をこの手で育てたのだ。よく夜泣きをする子で、平手が夢見たようには育たなかった、それゆえにはがゆい。
自分の失敗だとまで思っている。
ところが、帰蝶の政略結婚は、道三が主家筋を大軍で撃破することで破綻、娘を取り戻すことになった。
そして、なにくわぬ顔をして、また織田家との縁談を申し入れてきたのだ。
「どのような、オナゴだ」
「どのような・・・、とは」
「美しいか」
「あのマムシの娘ですから、それはおそらく美しいと思われます」
斎藤道三は美童であった。母の小見の方は明智光継の娘で、明智光秀は甥にあたるという。
「そうか」
「若、この結婚は失敗できませぬ」
「だな」
「お判りなら、そのお姿では、その・・・」
平手は言葉をにごした。
狂人と思われているなど、さすがに面と向かっては言いづらい。
「ジジ、余計なことだ」
信長が髪をかくと、白いものがポロポロと落ちてくる。
風呂に入れねば、なんとしても入れねばと平手は決意した。
「若、美濃と手を結ぶことは、今後、織田家中においても、若のお力に・・・」
再び語尾が消えた。
平手は深く理解していたのだ。
大ウツケの若君が主君となれば織田家が滅びる。そう多くの家臣が考えている。これは、さすがに口にできない。
この結婚を成就できさえすれば、あの道三が信長の後ろ盾となる。家臣も簡単には手が出せまい。
なぜなら、道三の背後には勇猛果敢は兵が控えており、その後ろには、兵を支える黄金という軍資金があるのだ。ぜひとも、この縁談、つつがなく進めたい。
それにしてもと、平手は案じる。神経の細やかな学者タイプで心配には事欠かない男だ。今ならメガネをかけた細面の東大出身エリート官僚というタイプ。長年、知識を武器に生きてきた。
そんな平手にとり道三は得体の知れない男だった。
自分の主人を滅ぼして、鋼のメンタルでのし上がってきたツワモノである。
このウツケとして域内に名を轟かす信長を、彼は義理の息子として受け入れるかどうか、それは、道三の胸にかかっている。
平手は脂汗を感じながら、ひれ伏した。もう、これしかこの何を考えているか理解できない若者に対処する方法を知らなかった。
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荒れた子ども時代と母との関係
なぜ、信長は、それほど荒れていたのでしょうか。
親にとり育てやすい子と育てにくい子は明らかにいます。
別の言い方をすれば、それは親子間の相性でもあります。
親が自然に愛せる子どもがいると同時に、苛立ちを覚える子もいます。
自分が隠したい同じ性質を子どもが持っている場合、親は疎ましく感じるようです。強く劣等意識を覚える部分が同じだと心が痛むのでしょうか。
この観点から、母にとり信長は育てやすい子ではなかった。
・・・私はそうは思いません。
実は信長、母に育てられていないからです。
母親の土田御前と父親の間には6人の子供がいました。
その長子として信長が生まれたのは1534年6月23日。生まれた場所ははっきりしていません。那古野城という説、勝幡城という説。
いずれにしろ、物心つかないウチに両親と引き離され、守役の平手政秀が育てたのです。
父母や弟たちは末森城(現在の名古屋市千種区あたり)に住んでいます。
歴史書は大人目線で書きますから、城主として信長は大事にされたことになります。
生まれてすぐの赤ちゃんであったか、少なくとも5歳までには実母と別に暮らしていたのは確かです。
幼い子ども目線からすれば、心の奥に親に捨てられたという孤独を感じても不思議ではありません。
城主などという立場を幼児が理解できようはずがありません。そして、赤子は血のつながらない大人たちのなかで大切に、つまり、愛情のない甘やしのなかで育ったのです。
養育係となった平手政秀は祖父といっていい年齢で、信長が10歳の頃、56歳のジイさんです。
当時の寿命が50歳ほどと考えれば、かなりの老齢です。
父、22歳の子ですから、父よりも年上となります。
ところで、信長ばかり注目がいきますが、父信秀は優秀な男でした。
胆力もあり、家臣の信頼もあつい武将で、彼の働きがあってこそ信長の天下統一の道筋ができたのです。
もともと尾張下四郡を支配する織田大和守家の3守護代の一人です。
そのなかで最も低い身分が織田信秀でありました。
急速に勢力を伸ばし今川氏の居城那古野城(のちの名古屋城)を謀略で奪い取り勢力を拡大したのは、信長4歳の頃です。
結果、現在の名古屋市、それも中区周辺で信長は育っています。
感慨深いものがありませんか?
場所的には、ほぼ名古屋市の中心あたり、現代は市役所や県庁が立ち並ぶ場所。広い道路が走り、今では多くのビルが林立する都会に彼は生きていました。
馬を駆り、相撲をし、ヤサグレ、血のつながらない大人たちの間で育っていたのです。
母の住む末森城は信長の住む名古屋城から約7キロほど離れています。当時の健脚なら、おそらく歩いて1時間弱の距離でしょうか。
母と息子は滅多に会うことはなかった、これは想像に難くありません。一方、常にともに暮している弟の信行やその他の兄弟姉妹へ母の愛情が偏ったとしても、これも不思議はないでしょう。
父親の信秀は今でいう単身赴任です。
末森城が拠点でしたが、戦国の世、勢力拡大に余念がなく、戦いにあけくれる毎日です。
いえ、ここで勝ち残らなければ滅びる。ふんばるしかなかった。
そういう時代でした。
一方、この当時、明智光秀は、まだ歴史的資料に名前はあがっていません。生まれた年でさえ定かではないのです。信長より年上説も年下説もあります。
ともかく、貧しい家に生まれ、貧しいがゆえに母の愛情を受けて育ったと思います。
光秀は妻を愛し家族を大切にしています。
親の愛情を受けて育ったからであろうと私は考えています。
有力な家で金もちとして育った信長と貧しい家で家族に囲まれて育った光秀。子ども時代を比較すれば、光秀のほうが幸せだったのではないでしょうか。
*歴史的内容については、一応、持っている資料などで確認していますが、間違っていましたらごめんなさい。
参考資料:#『信長公記』太田牛一著#『日本史』ルイス・フロイス著#『惟任退治記』大村由己著#『軍事の日本史』本郷和人著#『黄金の日本史』加藤廣著#『日本史のツボ』本郷和人著#『歴史の見かた』和歌森太郎著#『村上海賊の娘』和田竜著#『信長』坂口安吾著#『日本の歴史』杉山博著ほか多数。