真の貧乏とは
若い頃、明智光秀が仕事を欲しいと越前に渡った理由は、実に実に涙なしには語れないようなつつましやかな理由からだった。
彼には妻がいて、子どももいた。家族にまともな食べ物を与えたい。
雨水じゃなく井戸水を飲ませたい。味噌をつけた麦飯でかまわないが、毎日メシをくわせたいし、できれば、それを1日2回はありつきたいと思っていた。
教養深く頭の回転が早い優秀な男が、切実に望んだもの・・・
それは、家族を養うコメ!
そう、彼の望みはそういうシンプルなものだったと思う。
食べるものと雨露をしのぐ場所が欲しいだけの極貧生活で、考えることは一つしかない。いかに、今日のメシにありつけるか。
彼は美濃から北陸へ向かう道すがら、空を見上げて不安を感じたろう。
なぜなら、この貧しさは自分のせいだと責めるような男だったからだ。
貧困には2種類あって、本当の貧困と、比較しての貧困がある。
光秀の状況は現代の日本にはほとんどいない本当の意味での貧困状態であった。
以前、貯金ができないから貧しいというブログを読んだことがあるが、これは真の貧困ではない。
食べて寝る家はあるけど貯金ができない状態は、外食をしたり、時には旅行もして、遊行費は使って貯金できないという意味で、人と比較して自分は貧しいと感じていることだ。
完全な貧困とは住む家もなく食べることもできない状況。比較する必要など無意味な貧しさであり、まさに光秀が直面していたのは、そういう類の貧しさだった。
現代と戦国時代では、貧しさの質が違う。
一汁一菜と当時の食事をいうが、それが食せるのは、今でいう富裕層のみ。庶民は麦飯を、毒のない山野草とともに雑炊にして、味付けは塩か味噌。それを一食か、ときに二食できる者もいた。
1日3食になるのは江戸時代をすぎた先であって、戦国時代が終わり平和な時代が続いてからだろう。
一汁1菜、富裕層でその食事。
2019年の現代人は当時の富裕層よりも、ずっと贅沢な食事をしている。
光秀は和歌も読める教養人で、武芸にも秀でていたが、仕える相手に運がなく浪人、その結果、食べるコメがなかった。
朝倉家に仕えたころ
明智光秀が現代に生まれていたら、優秀な理系青年で自宅にあるパソコンを分解して親に叱られる類だったろう。
そうした性格をいかんなく発揮したのが鉄砲や建築物に関する興味である。
鉄砲は当時の最新技術。今でいえば、 AI関連に相当するかもしれない。外国から伝わったばかりの珍しい武器であった。
目端のきく彼は、いちはやく鉄砲の将来性を理解して勉強し鍛錬した。
当時、朝倉の殿に余興で鉄砲を撃ってみろと言われた光秀。
普通の鉄砲撃ちなら、的に当てるのが4割という命中率のところ、8割を当てたという。
築城にも造形が深く優秀な上に努力家であった。
使い勝手のよい部下として光秀ほど役に立つ男はいない。朝倉義景も、足利義昭も、そして、最終的にヘッドハンティングした織田信長も彼を重宝した。
1539年の正月、光秀は京都の室町幕府将軍、足利義昭の元で迎えた。
そして、彼は迷っていたのだ、これからどうしようかと・・・
力こそ正義か:本圀寺の変
世界一の安全運航を誇る東海道新幹線、日本の最高技術が誇る新幹線に、たった一つの泣き所がある。
それこそが雪。
岐阜羽島から近江八幡の間は、世界でも有数の豪雪地帯であって、「雪のために東海道新幹線は遅延しております」とは、毎年のように聞くアナウンスである。
1569年1月。
この豪雪地帯の悪道を信長は馬を駆るはめになった。なぜか。
足利義昭の仮御所を三好勢が攻めてきたからだ。
仮御所としていたのは、守りの薄い六条本圀寺。
京都からの急報を聞いた信長は片頬をヒクヒクさせた。
「な、なんじゃと! もういっぺん、言ってみい」
信長は耳を疑った。
三好勢は大敗して阿波に落ち延びたのだ。まさか、自分の戻ったスキをつくとは思わなかった。
油断したか。
「は! あの三好が本圀寺を攻めたと伝令が参りました」
「規模は」
「兵、1万」
「あの老いぼれくそジジイどもめが! 馬、引けい!」
「殿、しかし、雪が」
「なにか言ったか」
すすすすすす・・・・・
伝令が下がると同じ速さで、信長は準備した。
そして、彼の真骨頂スピード勝負がここから発動する。
「死ぬなよ、将軍。信長が行くまで、けっして死ぬな」
心で叫びながら、彼は馬にムチを入れた。
信長は早い。誰よりも早く、誰よりも果敢に前を進む。
これまでの戦国大名は、家来を前面に出して、その後を行く。
信長スタイルは違う。常に先頭を走っていくのだ。
彼について来れず振り落とされれば、その後はない。
だからこそ、多くの家来は必死であった。
とくに血気さかんな赤と黒の精鋭部隊は速い。
雪の東海道を美濃(今の岐阜)から京都まで、2日間で走破して義昭の元へ救援に向かった。
それも大雪の行軍である。
当時で3日はかかるという道を2日で走る。当然、下働きや人夫もついて行く。彼らのなかには重い荷物を背負ったまま凍死した者がいるというから、なんぎな道中であったことは間違いない。
本圀寺の戦いは桶狭間の戦いや長篠の戦いなど有名どころから見れば小粒な戦だが、しかし、2日間で豪雪地帯をひた走る信長を想像したとき、彼の必死さが理解できる。
(俺が行くまで、生きていてくれ)
馬を駆る必死のムチには、そんな祈りが聞こえてくる。
信長が天下をとるためにした苦労は筆舌に尽くしがたいものだったにちがいない。
だからこそ、彼は名を残した。
さて、この時、足利義昭を守って、獅子奮迅の活躍を見せたのが明智光秀であった。
襲われたと聞くや、でかい大筒を持って寒い京の町を走った。
大筒とは、普通の火縄銃よりも何倍も大きいもので、大砲ではないが、けっこうな重量。これを担いで走った光秀。
(上記のゲーム大筒はイメージです。実際の大きさは火縄銃より一回り大きく岩を砕く威力はあったようです)
光秀が担いだ大筒は威力がすごい!
例えば岩を砕くほどの破壊力。
大きいものは70キロくらいの重さがあったという。
これを担ぐ光秀、どんだけ無双よ。
寺を囲んだ三好勢10、000人に向かい、
発射!
どか〜〜ん!
その勢いや、その場にいた30人ほどがたちまち手負いとなった。
「次!」
「は!」
光秀の家来が火縄銃を渡すと、さらにぶっぱなし、その間に家来が大筒に弾丸を装備する。
「光秀さま!」
「おう!」
大筒を担ぐと、目の前にいた兵士たちは、あまりの衝撃に逃げた。
そりゃそうでしょう。
目の前に大砲みたいな銃を見せられて、余裕で前に立てる人間なんていない。
大筒で暴れたのち、仮御所に入ると、へなへなになった義昭がまっていた。
「おお、おお。光秀、ようよう参った」
足利義昭を警護する守備兵は少ない。
それでもなんとか持ちこたのは、途中で味方が助っ人にきたからであって、ひとえに光秀のこの機転と戦いがあったからだと資料に残されている。
―――――つづく
戦国時代を扱った映画「忍びの国」
2017年公開
原作:和田竜
監督:中村義洋
天正伊賀の乱を題材にした時代小説であり映画。
天下統一にむけ、織田信長は諸国を次々と落としていた。
忍びとして天性の才能をもつ無門。無類の怠け者ながら、技は超一流。彼は、策を労して織田軍との戦に勝利する。しかし、その結果・・・
嵐の大野くんが忍びを演じてヒットした作品です。
*内容には事実を元にしたフィクションが含まれています。
*登場人物の年齢については不詳なことが多く、一般的に流通している年齢を書いています。
*歴史的内容については、一応、持っている資料などで確認していますが、間違っていましたらごめんなさい。
参考資料:#『信長公記』太田牛一著#『日本史』ルイス・フロイス著#『惟任退治記』大村由己著#『軍事の日本史』本郷和人著#『黄金の日本史』加藤廣著#『日本史のツボ』本郷和人著#『歴史の見かた』和歌森太郎著#『村上海賊の娘』和田竜著#『信長』坂口安吾著#『日本の歴史』杉山博著ほか多数。